西郷徳利:鹿児島めぐりの旅一覧

2018/03/13 00:00 #010 薩摩藩・砲台跡めぐり
西郷徳利が行く鹿児島めぐりの旅
『西郷徳利が行く 鹿児島めぐりの旅』
第10回は、鹿児島市の砲台跡を巡ってきました。

薩英戦争絵巻



生麦事件と薩英戦争

現代でも歴史の教科書に載っている『生麦事件』。
外国人が馬に乗ったまま大名行列を突っ切ろうとして、「無礼である」と怒った藩士に斬られ、1名が死亡、2名が重傷を負った事件です。

この事件に出てくる大名その人が、薩摩藩国父・島津久光であり、相手側の外国人はイギリス人でした。
行列には、大久保利通・海江田信義(有村俊斎)・松方正義・小松清廉(帯刀)など、幕末・明治に活躍する薩摩藩士もいたようです。

最初に斬りかかったのは、寺田屋事件でも久光公の特命を受けていた奈良原喜左衛門。
止めを刺したのは有村三兄弟の長男・海江田信義(有村俊斎)と言われています。

2人とも薩摩藩の古流剣術である薬丸自顕流を学んでおり、特に奈良原は達人と呼ばれていました。

奈良原は馬上の人間を、抜刀しながら飛び上がり「抜き」で斬ったといわれています。
桜田門外の変井伊直弼を討ち取ったのも、薬丸自顕流の使い手で海江田信義(有村俊斎)の2つ下の弟・有村次左衛門です。

何やら強くて怖そうな想像をしてしまいますが、奈良原と海江田は薩英戦争時「スイカ商人に扮して敵艦を奪おうとして失敗」するようなお茶目な一面も。



幕末当時の生麦村
幕末当時の生麦村・「図解 幕末・維新」成美堂出版より



生麦事件が起こったのは1862年。
日本は当時、ペリー提督・黒船来航で1858年に開国済み。
外国人を受け入れていましたが、まだ武士の世界であり、事件のイギリス人は日本の社会に詳しくない観光客でした。

そもそも日本では、大名行列には道を譲るのが決まりであり、横切ったり行列を乱す行為は非常に無礼な行いとして「無礼討ち」も認められている時代。
久光公の行き(参勤)でも生麦事件と同じようなことがあり、その時は幕府に「外国人の不作法」について訴え穏便に済ませたようですが、帰り(交代)はそうもいかなかったようです。
大名の沽券に関わる上に、血気盛んな薩摩藩の大名行列です。無礼討ちになってもしょうがなかったのかなという気がします。

日本人にとっては道を譲って当然の大名行列も、外国人観光客にとっては「なんか人がいっぱい来た」だったのでしょう。


生麦事件のあと、久光はさっさと薩摩藩に帰ります。
幕府はイギリスからの犯人の差し出し要求や賠償金の支払い要請に苦労していましたが、久光は無視。

埒が明かないので直接交渉しようと錦江湾に船で到着したイギリス艦隊ですが、ここでも引かない薩摩藩、交渉決裂して薩英戦争に発展します。
1863年のことでした。

面白いことに、薩英戦争で薩摩藩が総動員体制をとったおかげで、寺田屋事件で謹慎していた西郷信吾(従道)大山弥助(巌)の謹慎が解かれます。
ここが近い未来につながってくるのです。



斉彬が将来を見据えて製造した大砲

前置きが長くなりましたが、この薩英戦争で活用されたのが、斉彬が製造した大砲です。

鉄製150ポンド砲
仙厳園にある「鉄製150ポンド砲」のレプリカ


1851年、斉彬は藩主となってから殖産興業に着手し、島津家別邸・仙厳園の横で集成館事業を始めました。
集成館では紡績・造船・製鉄が行われ、大砲を作るための反射炉も作られました。
仙厳園には今でも反射炉跡が残っています。

富国強兵・殖産興業を推し進める斉彬は、作った大砲を次々に配置します。

薩摩藩砲台

祇園之洲・弁天波止・新波止・南波止・大門口・天保山・袴腰・鳥島・赤水・沖小島と、錦江湾の両側から包囲するような配置です。
薩英戦争は斉彬が亡くなって5年後のことですが、まるでイギリス艦隊が攻めてくるのを予見していたかのようで凄いですね。

この大砲が薩英戦争で活用されたのですが、今は砲台跡として残っています。
石碑だけのところもありますが、祇園之洲・新波止・天保山砲台跡は、当時の様子がうかがえる素晴らしい史跡です。



広い!大きい!砲台跡

まずは祇園之洲砲台跡へ。
祇園之洲砲台跡は鹿児島市の北ふ頭近くにあります。

ここは1995年の8・6水害で移設された江戸時代からの石橋西南戦争の官軍戦没者慰霊塔があったりと、他にも見どころ満載で公園として整備されています。

祇園の洲公園

取材日も晴れていてとても気持ち良かったです。

猫と西郷徳利

移設された石橋を渡ったり猫とたわむれたり、公園を散策しながら進みます。

砲台跡は公園の奥のほうにありました。

祇園之洲砲台跡

ここが祇園之洲砲台跡の始まりです。
薩英戦争時の大砲を載せていた石垣がそのまま遺っています。

祇園之洲砲台跡

こんな感じで当時のまま。

祇園之洲砲台跡

祇園之洲砲台跡

石垣は公園の外周一辺以上ぐるっと長く続いていて、果たして何門くらいの大砲が置かれていたのでしょうか。
すぐ上の写真の矢印から矢印までが砲台跡なのですが、写真の手前、撮影者の背後にもずっと続いています。

祇園之洲砲台跡

こちらはパノラマ撮影。

祇園之洲砲台跡

砲台の案内板も薩英戦争について書かれていて一読の価値ありです。


お次は新波止砲台跡へ。
ここは砲台を作った時の地形がそのまま残されているところで、鹿児島市の北ふ頭にあります。

新波止砲台跡

西郷徳利の右手に見えているのは、桜島フェリーの発着所。

新波止砲台跡

画像にもある通り、海に面した石垣が、新波止砲台跡そのものなのです。
桜島フェリーに乗れば、全体を見渡せると思います。
ここもかなり広い!
かごしま水族館を囲むように、砲台跡を生かした開発が行われたようです。

新波止砲台跡

新波止砲台跡新波止砲台跡

新波止砲台跡

なんとなく当時の想像が膨らむ残し方です。

新波止砲台跡

ここにも生麦事件から薩英戦争まで詳しく書かれた案内版があります。



最後に、天保山砲台跡へ。

天保山砲台跡

天保山砲台跡は、鹿児島市の天保山公園にあります。
天保山は斉彬時代に藩士の訓練場があり、斉彬の御陣屋敷もありました。
1858年、上洛前の訓練中に天保山で倒れて亡くなります。

天保山砲台跡

天保山砲台跡

天保山砲台跡

天保山砲台跡は松林の中にあり、他の二つよりも昔の跡が残っていました。
ここも野球ができる公園を囲むくらい広くて大きい砲台です。


砲台跡はどれも海の近くで、強風にあおられつつの取材でした。
お腹もすいてきて温まるために天保山砲台跡近くのそば茶屋吹上庵さんへ!
そば茶屋さんは水車が目印の鹿児島でおなじみのお店です。

かなり寒かったので峠なべを注文。
峠なべは人気メニューで、この日は右も左も峠なべを頼んでいました。

そば茶屋

アツアツの鍋焼きうどんにエビ天・ちくわ・三つ葉・しいたけ・おもち2個・卵と、大満足のおいしさです。
そば茶屋さんは県内各地にありますので、探してみてください。



薩英戦争のその後

薩英戦争に話を戻すと、薩摩藩は戦死者こそ少なく死傷者63名のイギリス軍を撤退させたものの、被害が甚大でした。
市街地や弾薬庫などの軍事施設を破壊され、薩摩藩の十文字砲自在砲と、従来の10分の1の時間で装填できるイギリスのアームストロング砲に大きな差を実感したようです。

しかしここからが薩摩藩のおもしろいところで、イギリスとの和睦交渉の中で「軍艦購入」を取り付けます。
また、費用は幕府から借りて、返しませんでした。
和睦の条件にある犯人も「逃亡中」とシラを切って罰しませんでした。

そしてなぜか戦争相手だったイギリスと仲良くなり、1865年の薩摩藩英国留学生へとつながります。
薩英戦争のわずか2年後のことなので、歴史はおもしろいですね。


早川松山画・生麦事件
早川松山画・生麦事件




■次回 … #011 知覧町・武家屋敷



■薩英戦争砲台跡

・鹿児島県鹿児島市天保山町23−1

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