西郷徳利:鹿児島めぐりの旅詳細

2018/05/21 00:00 #012 鹿児島市・多賀山公園と東郷平八郎

西郷徳利が行く鹿児島めぐりの旅

お久しぶりの『西郷徳利が行く 鹿児島めぐりの旅』
第12回は、鹿児島市清水町、東郷平八郎の銅像がある多賀山公園を訪れました。

東郷平八郎像
よかにせとしても名を馳せた東郷元帥!



東郷平八郎といえば・・・

東郷平八郎といえば日露戦争日本海海戦で連合艦隊司令長官として指揮を執り、ロシアバルチック艦隊を撃破した英雄。
日本だけでなく、世界中から尊敬を集めた軍人です。

日露戦争

日露戦争時、東郷は海軍大将
1905年、露バルチック艦隊発見の一方を受け、連合艦隊を率いて日本海で迎撃します。

東郷は大本営に「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」(敵を倒しにいってきます!)と打電。

自らが乗る旗艦「三笠」のマストにZ旗(国際信号旗のひとつ)を「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」(俺たちにかかってるぞ!)との意味を込めて掲げ、味方を鼓舞したといわれています。

国際信号旗Z旗
こちらがZ信号旗


東郷は敵前で艦を回頭するなど大胆な戦術を見せ、見事に露バルチック艦隊から勝利を収めました。
これによって日本海軍ではZ旗が特別な意味を持つようになり、大規模な海戦では旗艦に掲げられるようになります。

日本海海戦のあと、東郷はロシアを破った英雄として世界中から称賛されました。
1926年には、日本人で初めて米「TIME」誌の表紙を飾ります。
この時、東郷は78歳。階級は元帥になっていました。

東郷平八郎元帥
老いてもよかにせやっど!


そんな推しも押されぬ英雄である東郷平八郎ですが、西郷・大久保らと同じ薩摩藩の下加治屋方限(ほうぎり)出身者です。



下加治屋町ご近所パワー炸裂

薩摩藩では郷中教育というご近所複式学級があったというお話を第1回の西郷徳利でしましたが、またもやこの地図の出番です。
歴史上の人物だらけ!薩摩藩が誇る下加治屋方限(ほうぎり)です。

下加治屋町



東郷平八郎誕生の地は、現在の鹿児島中央高校の一角にあります。



鹿児島中央高校は、上にある下加治屋町方限地図でいう「3」から右の当たりなので、敷地の周りには「二本松馬場(にほんまっばあ)」という通りも確認できました。

二本松馬場


こういった確認できる歴史も楽しいですね。
中央高校の敷地を一周すると、他にも村田新八・井上良馨・篠原国幹らの史跡に出会えます。

村田新八誕生の地 井上良馨誕生の地 篠原国幹誕生の地

下鍛冶屋方限だけでなく、となりの方限もすごいですね。
中央高校の正門からは、道路を挟んで西郷徳利の旅・初回で紹介した大山巌の生誕地石碑が見えます。

大山巌誕生の地

ちょうど観光客の団体さんが移動して来られて人だかりができました。
うれしい光景ですね。




ひとくちに明治維新で活躍した人といっても・・・

西郷・大久保を輩出した下加治屋方限ですが、実際のところ東郷平八郎と西郷・大久保の郷中教育での交わりは少なかったようです。
というのも、東郷と西郷との年齢差は20歳、大久保とは18歳差です。

薩摩藩・郷中教育のグループ分け
小稚児(こちご・6-10歳)
長稚児(おせちご・11-15歳)
二才(にせ・15-25歳)
長老(おせんし・妻帯した先輩)


東郷が郷中教育を受け始める年齢(6歳・1854年)のころ、西郷たちはすでに長老(おせんし)で年少者の面倒をみるよりは職について家族を養う身分。
西郷は斉彬に従って江戸へ上っており、大久保は高崎くずれの謹慎が解かれ薩摩藩記録役に復職しています。

どちらかというと、西郷の弟・信吾(従道)が東郷の5歳上大山弥助(巌)が東郷の6歳上と年が近く、下加治屋郷中で面倒をよく見ていたのは恐らくこの2人でしょう。
東郷と同じグループには、信吾(従道)の4つ下の弟・小兵衛もいたはずです。

そして、ほとんど帰藩することなく月照と入水・島流しに合っていた西郷よりは、在藩していた大久保のほうが東郷に目をかけていたはずです。
後に留学を目指したとき、東郷は最初に大久保に相談しています。

初陣は14歳で、なんと薩英戦争です。

薩英戦争では、大久保利通は天保山砲台で指揮を執り、イギリス戦艦に向かって一番最初に発砲!
若い大久保は意外と血の気が多そうですね(笑)
寺田屋事件・謹慎明けの西郷信吾(従道)大山弥助(巌)は、海江田信義(有村俊斎)らとスイカ売りに扮して船で乗り付けて敵艦奪取する作戦で失敗(笑)
(スイカ売り作戦は精忠組主導だったようです)

東郷はというと、鶴丸城の二の丸を警護していたようです。

のちに「陸の大山(巌)、海の東郷」と呼ばれる二人が陸・海が逆なのも面白いですが、通り向かいで誕生するのも出来すぎた偶然ですね。




のちの海軍元帥はホントは鉄道を作りたかった?

そんな東郷平八郎、明治維新後は軍人になる気はなく、鉄道技師を目指してイギリス留学したかったようです。
鉄道に興味があったとは驚きですが、最終的に日本の海軍力のためイギリスの船の学校に留学しました。

若き日の東郷



東郷の留学は「官費留学」で、明治政府が送り出します。
留学期間は長く約7年に及びました。1871年から1878年のことです。
その間に、西南戦争で西郷が自害(1877年)、帰国の年には大久保が紀尾井坂の変(1878年)で倒れました。

留学中の西南戦争について「自分が日本にいたら西郷の下に行っただろう」と言っていたようです。
事実、東郷の実の兄・東郷実猗小倉壮九郎の二人は西南戦争へ参戦し、城山で自決しています。

同じ郷中で志ともに育ってきたのですから、西郷の役に立ちたいという気持ちはとても強かったことだと思います。

大先輩と兄弟の死を悼みながらも、その後は自分の役目を見失わず、日本の海軍力向上に努め順調に出世していきました。


と、せっかくお久しぶりの西郷徳利ですが、東郷平八郎のお話は書きたいことのボリュームが多すぎて

「次回へ続く!」

です(ゴメンナサイ)
前・後編でお届けしたいと思います。

よかにせ元帥のお話をお楽しみに。




■次回 … #013 多賀山公園と東郷平八郎・後編



■多賀山公園

・鹿児島県鹿児島市清水町

 

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